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2013年2月18日(月)
着色について

 私のおもちゃには赤や黄色、青などの原色系の色がついているものも多い。
もちろんそれには意味がある。単にきれいだから塗っているわけではない。動く
部分がはっきりとわかるためとか、色分けして区別しやすくするとか、色の組み
合わせそのものを楽しめるとか・・・機能的に必要だから着色している。こどもに
とって色は友達だ。こどものおもちゃを作っているからこそ色も私は必要に応じて
使用すべきだと考えている。
 よく木のおもちゃで白木オンリーかあるいは樹種の違う木の色使いで作られていて
着色をしていないものがある。これは特に口に入れるかもしれない年齢対象の
おもちゃには意味のある選択だ。ただ、そういう意味とは離れて、単に表現の趣味として
木の自然色でのみ見せようとするおもちゃも多く存在する。それもまたひとつの見識
であり、やり方だとは思う。ただ一方で、それは大人の「自然志向」とか「白木信仰」の表現
としてデザインされているきらいもあり、本当に子どものおもちゃとして「色」は必要
なのかどうなのかという深い探求の上で選択されたことなのかどうかはわからない。子ども
にとって「遊び」とは何か、そのためのおもちゃとは・・・という視点からの発想ではなく
インテリア的な心地よさからの視点でのみ制作されているものもあるのではないだろうか?
 もちろん、着色する場合、塗料の安全性などには充分配慮する必要がある。(ヨー
ロッパの木のおもちゃでは着色されたものが多いが、当然安全性に配慮された塗料が
使用されている)この点ではいつも苦労する。自然系の着色塗料は乾きは遅いし、色落ち
もあるし・・。
 ただ、木をあがめるあまりに色を悪者にしないでほしいなと思っている。子どもにとって、
遊びにとしてどうなのか
という視点から色というものを考えたい。

2010年8月31日(火)
自分で作るということ

 あるおもちゃデザイナーがこんなことを言ってたことがある。
「おもちゃデザイナーは自分で作っちゃいけない」と・・・。
 何故なら、「自分の持っている道具(機械)や技術の範囲でできるものを
どうしても考えてしまうからだ。作ることは専門のところにまかせちゃって、
もっと自由に発想してこそ新しいモノが生まれる」からだという。

 私はこれを聞いて、『半分真理で、半分は違うな』と思った。
自分で作ることを前提としてしまうと、持っている道具や技術の
レベルで考えてしまうというのはその通りだ。そういう意味では、
私は自分で一から十まで作るということにあまりこだわってはいない。
自分ができない加工は専門の木工所に任せて、より精緻な製品を
めざすことも大事だと思っている。
 ただし、一方で、試作はもちろんのこと、改良していくときも私は必ず
自分で作る。動きが変化したり予測できない動きをする私の作品たち
の場合、頭の中だけとか、紙に書くだけでは絶対シミュレーションできないのだ。
形を組み合わすことでバリエーションを生む積木系の玩具や、組み木などの場合
は紙上でかなり練ってしまえる。しかし、例えばの話、新しいコマを作る場合、
回してみないと動きがわからないのである。
 そういう意味で私は「自分で作る」ことを重視している。

 いったん試作を終え、製品化してしまえば、より完成度の高い製品をめざすべく、
木工所にお願いする(パーツの場合もあるし、完成品の場合もあり)という選択
をしている作品も多くある。

クラフトマンかデザイナーかと聞かれれば「デザイナーです」と答えるが
クラフトマンシップを持ったデザイナーでありたいな・・・と思っている。

 そういえば、以前、講演で来日したネフ社のデザイナー ハイコ・ヒリック氏に
「自分で作ってみるのか?」と聞いたところ「最初は必ず自分で作る」と言っていたっけ。


「モアレ」 ゴムを規則性を持たせて掛けていくことで3次元的なパターン
が数多く生まれる。


2007年9月28日(金)
電子系ゲームについて<その1>

 「テレビゲーム」「コンピューターゲーム」「電子ゲーム」・・・正式にはなんというのだろう
とにかくその類のおもちゃについて。
 もともと、私は、世代的に、映画「三丁目の夕日」の風景がどんぴしゃな時代に
子供時代を過ごしているので、アナログ遊びしか知らない世代だ。その手のゲームに
出会ったのは、大学時代にインベーダーゲームが流行ったあたりだろうと思う。喫茶店
なんかで少し遊んだ覚えがある。(凝らなかったけど・・)まして「ファミコン」とかいうのが
出だしたのはすでに社会人になってからのことなので、「子供のおもちゃ」という感覚で、
全く縁は無かった。

 そういう私のいわば個人的な電子系ゲームに対する見解というか、感じていること
を少し書く。
「ゲーム脳の恐怖」という本もあるくらい、その依存性などの問題点が懸念されて
いるが、確かにそれは当たっているのではないかな・・とは思っている。ただ、
私から見た「電子系ゲーム」は、そういう発達学や教育学的な問題点をいったん置いて
おいたとしても、素朴な実感としてまず「面白くない」という評価にいきつく。私にとっては
遊びとして面白くないのだ。悪いけど。

 子供のを借りてやってみたこともあるが、レース系とかシューティング系、格闘系の
ゲームなどはどれも単なるボタン操作の「反応」が巧くなるだけの話で、途中でどうしても
虚しくなってしまい、上達しようという意欲が私には全然生まれなかった。ボタンの反応が
うまくなればなるほど傍から見たら放心してボタンを動かす人形のようでちっともかっこよく
ないというのもあったし・・。
 「ロールプレイング系」のゲームもまたわけがわからない・・・。ちょこちょこと動き回って
なにやら会話して、なにかを探したり・・めんどくさいのなんのって・・・
いや、これらの感想はごく個人的な私の感触なので、決してそう感じない方もおられるであろう
というのはわかっているのだが・・。

 そういえば、友人の家に流行りの「脳トレ」のソフトがあって、(タッチペンで操作する
例のハンディなゲーム機のもの)少しやってみたが、クイズ的なものにいろいろ答えて
いるうちにだんだんばかばかしくなって『なんでこんな機械に脳年齢を判定されなきゃいけな
いんだ!』と思い始め、最後まで真面目に答えることができなかった。結局判定で60何才とか
70才とかでて、今度は、いかに高年齢を出させるかという遊びにしてしまった。私がひねくれて
いるか、頑固者なんだろうけど、特定の学者が作ったゲーム機のソフトに猫も杓子も脳年齢
を判定されていること自体、数値的な脳トレにはなるのかもしれないが、自立した大人としての
精神年齢は逆に低くなるような気がしてならない。ちょうど旗をふって添乗員に案内してもら
わないと旅行できない人のように・・・。自分で読書でも運動でも趣味でもなんでもして脳トレ
になると確信を持ってやればいいのだと思っている。 

 結局、レースだったら、実際にコース上を操作するレーシングカーのおもちゃのほうが
面白いし、コマを回して対決したりするほうがもっと起こりうる展開のバリエーションが
豊富(当たり前か・・・実物なんだから)で、技術も微妙で、興奮もする。そして、巧くなった
時の姿がかっこいいのである。ひょいと巧にベーゴマを回す名人はかっこいいもんね。
それに、面と向かって直接対決できるのが実物のいいところだ。電子ゲームで対決といっても
同じ画面に向かってボタンの押しあいっこで「対決」というのもね・・・。それよりも多人数でトラ
ンプなんかで盛り上がるほうがよほどかけひきが必要だし、会話もはずむ。
 要するに、画面の中から車なりなんなりを取り出して、直接動かしてみたくなる衝動にかられ
てもどかしくなるのだ。ボタン押して「格闘」するより実際にグローブやプロテクターをつけて
組み手したくなるのだ・・。このもどかしさはなんなんだろう。
 
 我が家の息子たちも一応ゲーム機は持っている。(長男が小学校高学年になった時
やっと許したのだが・・・)「ウイニングイレブン」(サッカーのソフト)や「パワフルプロ野球」
「NBAバスケット」など主に、スポーツ系のゲームが多いようだ。
実際に部活やサークルをオフでやれない時に、ゲームの試合なんかで追体験したり
擬似体験するのがいいのだろう。ただ、ゲームそのものにどっぷり「はまる」ということは
今日まであまり無かったように思う。外遊びも、レゴも、工作も、友だちとの「ウノ」も、
魚釣りもetc・・・いろいろやってきてそれぞれの面白さを知っているからかなとも思う。
ひょっとしたら、私のように、電子系ゲームで感じる「もどかしさ」を彼らもなにかしら感じる
のではないか・・・などと想像している。

今回は、私の主観というか実感をもとに比較的軽い感じで電子系ゲームへの思いを
述べたが、本当はもう少し危機感を持っている。次の回では、もう少し突っ込んで、バーチャル
なゲームの子供や社会への影響についても述べてみたいと思う。
 

2007年2月28日(水)
生命感

 このコラムを書くのも約1年ぶりだ。
先日、あるお店で私のおもちゃで遊んでいる
女の子が「このコマ生きてる!」と言ったのを
聞いた。そのときはなんとなく聞いていたが、
帰ってからふと考えてみたら、その言葉が私の
おもちゃの特徴を最も端的に言い表しているの
かもしれないなというのに気付いた。
 「たたくとコマが飛び出して回る:スポーラ」
「レバーの操作で人形を波乗りさせる:ウェーブ」
「たたいて人形をジャンプさせ、上の玉にくっつけば成功
という:飛んでキャッチ」「ヤジロベーを飛ばして
うまくブロックに着地させる:のせっこ」などなど
 どれをとっても、操作したとたんに対象に生命が
宿っているかのように活躍し始めるおもちゃばかり
なのだ。
 前回、自分のおもちゃを「体育系」かなとまとめてみたが
それはまさに、人形なりコマなりに「体育」させているという
意味での「体育系」だ。
 つまり、自分の「思い」や「パワー」「エネルギー」をおもちゃ
の人形やコマや・・といった動くパーツに全て込めて
託していくのである。その結果、自分の分身のような
パーツたちが飛んだり、失敗したり成功したり・・・と生き物
のように活躍し始める。自分が操作したとたん、おもちゃに
生命感が吹き込まれるのである。
 その驚きが、たぶん、スポーラや飛んでキャッチなどで
初めて遊んだ人が必ず第一声にあげる「わぁ!」という歓声
になって現れているんだと思う。自分が思っていた以上に、
妙な「生き物感」があってびっくりするんだと思う。
 それは、「ぼかん」にしても同じだ。初めてたたいた人はあま
りに見事に一瞬ではじけてバラバラになるのを見てびっくりする。
それはあたかも、「ぼかん」それ自体が自分からはじけたような
生命感を感じることからくる驚きでもあるのだと思う。

 大きな意味では「動きのあるおもちゃ」というジャンルにまとめられ
てしまうのであるが、いつも同じ結果が約束されている「動き」では
決してない。生き物的な動きというからには、成功したり失敗したり
するんである。そこに感情移入する余地が生まれるし、「次こそは!」
とチャレンジする意欲も湧いてくる。
 必死で玉に向かってジャンプする人形に向かって、思わず心の中
で『がんばれ・・・』と応援してしまうおもちゃなのである。

Mtoysの

おもちゃコラム

ここでは、Mtoys主宰・松島洋一の木のおもちゃへの想いや考え方を、その時々の
テーマで語っていきたいと思います。