絵本作家の田島征彦さんの講演に行ってきた。この講演会は、龍谷大学短期大学部に
「こども教育学科」が来年度より開設される記念行事として企画されたものだ。
実は,私を含めた作家仲間で作っている会「エトセトラ」に、昨年、龍谷大短期大学部より依頼があり、
こども教育学科開設にともなう「おもちゃプロジェクト」にいろいろ関わってきた経過がある。そのひとつ
の結実として、今回の行事の記念品として、我々エトセトラ5人のオリジナルおもちゃを採用いただき
来賓に配られる運びとなったのだ。(この記念品の内容についてはあらためて紹介したいと思う。)
我々は記念品発案・制作に携わった立場から講演会に招待いただき、出席することになった。
「みみずのかんたろう」田島征彦作
さて、田島征彦さんだが、「じごくのそうべえ」「あつおのぼうけん」などの絵本を描いた方で、
双生児の兄弟・田島征三さん(同じく絵本作家。「しばてん」「ふきまんぷく」など)とお二人とも有名な
作家である。
田島さんは、京都の北部・八木町(現・南丹市)に若いころより移り住み、田畑を耕しながら創作を
続けてこられた。印象に残った話としては、そういう若い頃の食うや食わずの時に沖縄に通って
絵本の題材を取材されていた頃のこと。田島さんは灰谷健次郎さん(児童文学者・「兎の眼」「太陽の子」
などで知られる)と一緒に沖縄を周り、島の人たちの中に入って生活したということだ。
そんな時、ある村で「アカマタ、クロマタ」という秘密の祭りがあると聞き、地元の知り合いをつてになんとか見せて
もらえることになった。田島さんは祭りの踊りの様子をスケッチしながら、だんだん夢中になり、前に出て絵を描いて
いた。すると踊っていた少年が急に田島さんのスケッチブックを奪い取って、描いた絵をどんどんやぶってしまった
という・・。田島さんは『秘密の祭りなのによそものがこんなにあからさまにスケッチなんかして・・配慮がなんて
足りなかったんだろう・・。』と自己嫌悪に陥ったそうだ。落ち込んだ気持ちで宿に帰って返されたスケッチブックを
パラパラとめくってみると、どうしたことだろう!描いた絵は全部残っていたのだ。つまり少年は白い白紙だけを
破り、描かれたところは残しておいてくれたのだ・・。田島さんは、『あの年端もいかない少年がなんという心にくい
はからいをしてくれたことだろう・・。これが沖縄の心なんだな』と感じ入り、その体験をもとに、「キジムナーとトントンミー」
という絵本を描きあげたという。
田島さんは常に絵本の題材に自分の存在をかけて向き合い、自分で感じたことを表現してこられた。頭でわかったような
ことを表現することは避けてこられた。そんな田島さんの姿勢がよく現れたエピソードだった。
あと、「あつおのぼうけん」という障がい児が主人公の絵本では、原作を吉村敬子さん(自身も障がいをもつ絵本原作者)
が書き、絵を田島さんが書かれたのだが、、この制作話でも吉村さんとむきあい、ぶつかりあいながらひとつの作品にしていく
過程を聞くことができた。
ちなみに、この吉村敬子さんのデビュー作「わたしいややねん」という絵本の絵を描いた松下(旧姓だが)香住という女性は
私の大学時代の同級生である。吉村さんの介護をしていた彼女が共同で一冊の絵本を作ったのだった。車いすだけしか出て
こないこの絵本は、今も名作として絵本界で評価されている。大学の授業をさぼりがちだった私をなにかと助けてくれた彼女
は、その絵本を1冊描いただけでプロにはならずに現在に至っている。たった1冊の仕事だが、「わたしいややねん」という仕事が
いつまでも輝いている。大学を卒業するかしないかの時期にこういう仕事を成した彼女に、同じ美術・デザイン系の学生として
少なからず影響を受けたと思う。それはやがて私が教員をやめて木のおもちゃ作家活動を選択する遠い動機のひとつになって
いる。
なんか田島さんのお話から自分の知り合いにつながる事柄が思い出せて、うれしかった。
そういうわけで、龍谷大学短期大学部が企画したこの催し、「学科新設」記念行事と銘打ちながらも、講演後のトークセッション
も含めて、ほとんどその内容は田島ワールドの話に終始するという、私にとっては心惹かれる催しだった。
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